田舎のおっさんの日本の進みかた

みんな幸せな国の形を考えたり時事ネタ考察等

マスコミの在り方

映画「新聞記者」

 最近話題になるこの映画、私は見ていませんが、ジャーナリズムについて考えさせられる内容だそうで。しかしながら私が思うにこの映画、大衆にジャーナリズムの在り方を履き違えさせることが目的のプロパガンダ映画なのではないかと思っています。

私の中のマスコミ像

  私は以前地方新聞会社で働いていたことがあります。その時感じたのは経営者、従業員問わず傲慢な体質という印象でした。ある先輩が言っていたのは【「~製作所」を「~SS」と略すのは我々がそう略すようにしたからだ】等と言われたのですが、常識を作っている側的な印象を受けました。実際にそういった略称をいつ、誰が作ったかは解りませんが、既に常識となっている略称に対してわざわざ起源を主張している意味が全く解りませんでした。一方で、学生の時にボランティアで働いた地方ラジオ局はそんな感じは全くなく、大学生や高校生を巻き込んで町を盛り上げていこうという感じで、先述の新聞会社の様な傲慢さは全く感じなかったのをよく覚えています。

マスコミに求められているもの

 さて、メディアって読者様各位におかれましてはどの様な存在でしょうか?メディアに求められているものとはなんでしょう?

 先程お話した地方ラジオ曲がある市は私が社会になってから間もなく大きな地震に被災しました。その時その曲は避難に関する情報だけでなく、職員さん自身も被災されているにも関わらず、被災者を元気づける主旨の放送を地震発生直後から繰り返し、その姿は全国ニュースにもなり、高い評価をされました。聴取者に寄り添い、本当に求められていた報道を行う姿勢だから、こうした評価がされたのだと思います。

  さて、先述の新聞社の地元でも同じ時期に大規模な水害が起こりました。この新聞でも被害の様子や避難情報を淡々と報じました。これも被災者に情報や事実を正確に伝えたことから一定の高評価がされていました。この高評価というのは市民の方に伺ったソースです。

 さて、冒頭の映画、「新聞記者」に深く関わりのある東京新聞の望月記者の話題になります。彼女は菅長官との不毛なやりとりで一躍時の人になりました。しかし、私にはジャーナリズムの濫用にしか見えないのです。まず、「ジャーナリストは国民の代表」これです。これは絶対に間違いです。なぜなら何も代表たる根拠が無いからです。選挙で選ばれた訳でもなければ、公的機関に任命されたわけでもありません。これがまかり通るなら、私が今新聞社を立ち上げるだけで国民の代表を名乗れる暴挙に出る事も可能です。範囲を絞って記者クラブが国民の代表という読み解き方もできますが、それはそれで問題です。それであれば、東京新聞よりも発行部数の多い紙面の記者の質問が優先されるはずです。そして、質問の質が低い。週刊誌などのゴシップレベルのソースを裏取りせずにぶつけるので、現実との乖離が甚だしい質問になります。結果、質問時間ばかりが長くなり、他の記者による質問時間が削られ、国民の知る権利を阻害しているのです。

 真実を知るためには多角的な見方が必要です。同じ話題でも肯定的に考える人と、否定的に考える人で質問のニュアンスも違えば回答も変わってきます。国民が求めているのは真実であり、それを担保する多角的な意見や質問、回答です。望月記者はその偏った傲慢ともいえるジャーナリズム観で国民の視点を固定化し、多角的に思考する機会を奪い、真実から遠ざけていると私は思います。